Читать книгу ツインフレ—ム-双子の炎- - Catherine Labbe - Страница 6
新次元の愛
Оглавление「愛」とはなんでしょうか?
「愛」は私たちの心のまん中で大きな場所を占める、人生の大いなる神秘です。愛は複雑であり、時代や文化によってはなはだしく異なるからこそ、人の心を捉え、人に疑問を投げかけます。
愛は人生、人間関係、そして人々の関心の中心に居座っています。
愛はあらゆる形をとり、さまざまな方法で存在します。さて、ここでは愛に関する今ある定義を見直すのではなく、愛に関するさまざまな研究や仮説について分析を行っていこうと思います。
愛の探求の旅の途中で「宇宙」が私に教えてくれたことをみなさんにご紹介させていただこうと思います。
ただし、私の言うことが「絶対的な真実」だ、私は何もかも知っているなどと言うつもりはありません。
私は存在の本質を研究中のひとりの女性にすぎません。自分の旅の道すがら、自分のツインフレ—ムと一緒にみつけたことをただみなさんと共有したいだけなのです。
» 「愛」のふたつの側面
1) 私たちの「愛」の捉え方
愛とは何かを考えるにあたって、まず選別を行い、基本的な情報を共有しておきましょう。愛についての考え方や愛に求めるものは人によって異なるため、この点を押さえておくことは重要です。
さて、ここで少しエクササイズ(練習)をしてみましょう。
次のような質問をご自分に投げかけてみてください。
● 私にとって愛とはなんだろう?
● 私が個人的に愛を定義するとしたら?
● 自分に対する愛、他人に対する愛、カップルとしての愛を私はどのように捉えているだろう?
● 私は愛を具体的にどのように認識しているだろう?
● たとえば私にとってカップルにおける愛をあらわす行為とはなんだろう?
● どうすれば私は相手から「愛されている」と感じるのだろうか?
● どうされたら私は相手から「愛されていない」と感じるのだろうか?
このエクササイズを行うことによって、あなたは自分自身についてよりよく知り、あなたにとっての愛がどのようなものかがわかるようになります。質問はもっと掘り下げることもできますが、このへんにしておきましょう。
同じ質問をほかの人にしてみてください。すると、人によってまったく違った答えが返ってくることがわかるでしょう。これはごく当たり前のことです。私たちの愛に対する考え方、愛との接し方は千差万別なのですから。
ただ、カップルのあいだで愛に対する考え方や愛に求めるものが違っているとやはり落ち着きません。
人間の愛に対する考え方にはさまざまな種類のフィルタ—がかかっていて、いろんな条件や制限が付けられています。
ひとりひとりが時代、社会、教育、文化、宗教、集団的意識などによって異なる、それぞれの愛の見方をしています。
また、宗教、過去の経験、恐怖、無意識・意識的に設けられている制限、コンプレックス、トラウマ、願望、欲望などによっても見方は大きく左右されます。
広い意味での愛という言葉に対して私たちはみんな違った考え方をしていて、愛が果たす役割も人それぞれです。
愛について考えるとき、私たちはまるで内側にも外側にもフィルタ—がついた眼鏡をかけているようです。制限がついていて、ひとりひとり見える景色が違います。
私たちが見ていること、私たちが信じていることは必ずしも本当のことだとは限りません。
このように人間にとっての「愛の見方」には制限がついていたり、変形させられていたり、あるいは歪められている恐れがあります。ところがその一方で「本来の愛」というものが厳として存在します。これはピュアな状態の霊的本質としての愛です。
2) 「本来の愛」
人間としての私たちの捉え方では、愛は小さくなるように制限が設けられ、変形され、歪められた状態で感知されています。しかし、実際には愛は大きなものであるということを認識しておくことが重要です。実際の愛は私たちが人間の頭や意識で想像したり、信じていたり、考えているよりもはるかに巨大なものです。
実は私たちはみんな自分のやり方で、自分の意志によって、この「ピュアな状態の愛」につながることができます。ピュアな状態の愛、それはあらゆる形態の生命、あらゆる創造物のみなもとです。この愛はあまねく存在です。愛は至るところあり、ありとあらゆるもののなかに存在しています。愛は無限であり、愛には限界がありません。私のスピリチュアルガイドはこれを「絶対的な愛の根源」と呼んでいます。
この絶対的な愛の根源とつながっていることを思い出したとき、私の人生は大きく変わりました。
そのとき、私は幼少期に(きっとほかの多くの幼い子供も同じでしょう)この絶対的な愛の根源と自然につながることができていたことを思い出しました。
また、私は12才ごろに事故にあって死の淵を訪れたことがあったのですが、そのときにもやはりこの絶対的な愛とのつながりを感じていました。それは深い愛の波動に包み込まれ、愛され、しっかり支えられている感覚でした。このときに経験したこと、感じたこと、それはとても言葉では表現しつくせません。この体験は私の記憶に深く刻み込まれたまま今も残っています。そのとき、絶対的な愛が本当に存在すること、そしてこの愛に触れることができることを知りました。そして、それは私の確信となりました。
» 愛を求める競争
愛は私たちみんなに関係するものです。
私たちの行動を少し観察してみると、人生が「愛を求める競争」のようにみえることがあります。競争はしばしば無意識のうちに行われます。
つまり、私たちは誰もが愛を必要としていて、生涯愛を追い続けているのです。魂の観点では、愛を必要としたり、求める行為は必ずしも正しいことではありませんが、人間の観点では仕方ないでしょう。生きるために愛は不可欠なのですから。食物や水が体の栄養として生きていくのに欠かせないように、愛は私たちの人間としての魂の栄養となります。
私たちは心の必要性を満たすために愛を追い求めてしまうのです。
» 「空っぽの愛」と「満ちた愛」
「ツインフレ—ム」という本題に入る前に「空っぽの愛」と「満ちた愛」という考え方、そしてその仕組みについてよく理解しておきましょう。
ここでお話しする「空っぽの愛」と「満ちた愛」という考え方は人が自分自身に、あるいは他の人々に愛をもたらすときの心の動きを理解するのに重要な鍵となります。
誰かを愛するとき、その人と一緒にいると満足だ、一緒にいると落ち着くなどと言います。
さて、「一緒にいると満足」とは何を意味するのでしょうか。それはその相手が自分の必要とするものをもたらしてくれ、そのことによって自分が満たされるということを意味します。
「絶対」とまでは言いませんが、私たちはしばしば意識的に、あるいは無意識的に自分に欠けているもの、心地よさを感じるもの、必要なものを他人のなかに探しています。
これは私たちのなかに空っぽな場所があって、そこを埋めてくれるものを持っている人を探している状態です。
わかりやすくするため、ひとつ例を挙げましょう。ここにあるひとりの女性がいました。彼女は自分が愛されている、大切にされていると感じる必要がありました。そこで自分に関心を寄せ、こまめに世話をしてくれる男性を探していました。そこにひとりの男性があらわれます。彼は彼で女性の役に立っていると感じる必要がありました。それは自分が誰かにとって大事な存在となっているとの実感が欲しいからでした。さて、この女性とこの男性が出会い、カップルとして暮らすことになりました。
男性はこまめに女性の世話をし、そのことで自分が女性にとって役に立っている、自分は誰かの大事な存在であると感じる必要が満たされました。また同時に、この行動のおかげで女性も男性から愛される必要、大切にされる願望が満たされました。
お互いが心の平和を感じ、愛しあい、一緒にいて幸せになれたのだから、何も言うことがないじゃないかと思われるかもしれません。
確かに自分のなかに空っぽの場所があっても、それをほかの人が埋めてくれているあいだは物ごとがまるく収まっているかのように思えます。ところがもしこの空っぽの場所がこの男性ではなく、別の方法でも埋められるとしたらどうなるでしょうか。男性は自分が役に立っていないと感じ、ふたりの関係のバランスは崩れてしまいます。
私はこうしたバランスを「危ういバランス」と呼んでいます。つまり、このバランスは適切ではないのです。実際は不安定なのにもかかわらず、一所懸命誤魔化し続けているに過ぎないのです。こうした関係は何かがあればすぐバラバラになり、すべて崩れてしまいます。
ここで説明したケ—スを私は「空っぽの愛」と呼んでいます。この愛はひとりひとりの空っぽの場所を他人が満たすことで成りたっています。
こうした「空っぽの愛」にはありのままでいる自由がありません。バランスが危うく、自分の権限を他人に渡すことによって成りたっているからです。
幸せになるために自分の空っぽの場所を埋めてくれる誰かを頼る、それはその人に自分を不幸にする権限を与えることにつながります。空っぽの場所を満たしていたものをもしその人が取り除いてしまったら、自分は不幸になってしまうのですから。
どうぞ周りを見渡してください。多くの人が無意識に、あるいは意識的に、この「空っぽの愛」の例のように自分の幸せを他人の手にゆだねています。
しかし、なにも他人や愛する人から親切を受けてはいけないと言っているわけではありません。ここでみなさんに言いたいのは、「空っぽの愛」とは別の形の愛が存在するということです。つまり、ひとりひとりが満たされていて、完全であり、自分らしくいられる権限を完全に握りながらも、正しく安定したバランスのなかで生きることができるような愛が存在するということです。こうした愛の形を私は「満ちた愛」と呼んでいます。
重要なのはひとりひとりが自分自身で自分の空っぽの場所を埋めることを学び、他人に依存しないようになることです。それによって人は満ちることができ、完全な存在になることができるのです。
「満ちた愛」はあなたの愛する能力を奪うものではありません。それどころか「満ちた愛」によってあなたは相手を満ちた状態で愛する能力と自由を手に入れることができます。この「満ちた愛」のなかで創られたものはすべて安定し、基盤がしっかりしています。
私がルドヴィックと出会ったころ、ふたりはまだこの「満ちた愛」のなかに完全にいるとはいえませんでした。私たちにはそれぞれが埋めるべき空っぽの場所がありました。しかし、私たちはこの「空っぽの愛」と「満ちた愛」の違いについての知識があり、このことをしっかり意識していました。自分たちの再結合やミッションの重要性を考えると、ふたりの関係を危ういバランスのうえに築くわけにはいかないことがわかっていました。もちろん人には自由意志があるので、違う選択もできないわけではありませんでした。しかし、私たちはこのミッションをなし遂げ、これに伴う義務を果たしていくのだという誓いをたてていました。
私たちの愛が正しく、完璧であるためには、お互いが(かつてのように)満ちた状態となり、存分に愛しあう必要がありました。そのため私たちはそれぞれ空っぽな場所を埋める努力をし、励ましあい、支えあいました。
のちほどまたいいますが、カップルのケ—スでは無意識の心の癖や、自分の空っぽの場所を埋める必要性からつくり上げた理想の異性像と比べてしまい、何かと問題が生じがちです。
私たちの場合、本来の相手らしさを受け入れ、さらに相手が本来の自分らしくいられるよう励まし、応援するよう心がけました。
こうしたことは簡単そうに聞こるかも知れません。また、それができれば素晴らしい愛の証しに、美しい「満ちた愛」のあらわれとなります。ところがそこに至るのは大変なことです。それぞれが進歩しながら、カップルとしても一緒に進歩できるよう、各自が自分のなかで深いワ—クを行わなければならないからです。
たとえば相手に対して自分の権限や自由が取り戻せるよう励ましはしても、実際に相手が自分で自分の空っぽの場所が埋められるようになったとします。そうすると、つい自分が相手に対して持っていた権限を失ったことを残念だと感じそうになりがちなのです。ですから、むしろそうしたことが喜べる心となるよう、ワ—クを行う必要があるのです。
いずれにしても、正しく、満たされた、完全な関係を築くには「満ちた愛」を基本にするしかありません。
すでに一緒になっているカップルのなかには「空っぽの愛」から「満ちた愛」に移行するためのこのワ—クは大きな影響を及ぼし、別れや離婚につながるのではないかと心配する人がいます。
実際、その関係がもし危ういバランスのうえに成りたつものであったなら、幻想は粉々に打ち砕かれてしまうことでしょう。
ただ、誰もが自由意志を持っています。そして誰もが自分の望む人生を選択できます。ひとりひとりがどのような愛の形(「空っぽの愛」なのか、「満ちた愛」なのか)で自分の道を歩むのか決めることができます。
しかしツインフレ—ムとの「至高の愛」をベ—スに、価値を生む、安定した関係を築きたいのであれば、脆い幻想の関係ではなく「満ちた愛」を基盤としなければなりません。
» ツインフレ—ムの愛:「至高の愛」
ツインフレ—ムの愛は肉体的な愛にも、感情的な愛にも、また頭で考える愛にも根差していません。するとそれは「スピリチュアル的な愛」と呼べばよいのでしょうか。確かにスピリチュアルなレベルにより近いとはいえます。
ただし、ツインフレ—ムの愛がスピリチュアルな愛だと言いきってしまうとスケ—ルが小さくなってしまいます。
ツインフレ—ムがピュ—ル・プロセスによって変容の道をたどっていくと、やがて「新次元の愛」の扉が開きます。
ツインフレ—ムの愛はスピリチュアルな世界よりも、むしろ地球上のパラダイムシフト16 に向けた活動やプロジェクト、これらの実現のために登場するといえます。
ツインフレ—ムの愛は、存在の神髄や「至高の愛」に関わる、神聖な領域に属するより大きな愛なのです。
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「パラダイムシフト」;ある時代、ある分野における認識や思想、社会全体の価値観の革命的な大転換。