Читать книгу Die großen kosmischen Lehren des Jesus von Nazareth an Seine Apostel und Jünger, die es fassen konnten - Gabriele - Страница 11
Оглавление私はアルファとオメガ。物質世界と魂の国の開始と終焉 である。
あなたがたは、私の中で、私とともに永遠の生命に成熟する。そこでは、私が父の中にあり、あなたがたも私とともに父の中にいる。そこには始まりも終わりもない。何故なら神が存在し、私たちが神の中にいるから。私、すなわち神キリストが、すべてを真理の光に向かって高めてゆく。
私は生命、神の息子キリストである。私、すなわち生命の霊、キリストを自らの中によみがえらせる人は、自分の永遠の生命である霊的な遺産を再び見出したことになる。すると、その存在は永遠の父、神のもとに戻る。それは神から生まれたものなのだから。
あらゆる人が私の中でよみがえろう。敗れたと思っている人をすべて私は見つけ出そう。弱っている人は私の中で強くなる。私は父の中の栄光であるから。
神、偉大なる万物の創造者は、私に課題を託した。失われたと思われるものをすべて永遠の「神による存在」に戻すという課題を。
ナザレのイエスとして、私は私のことを理解できた人に対し、比喩なしで、生命の法則について話をした。私のことを理解できなかった人にとっては、聖なる言葉は秘密であったため、私は比喩的に何度も話をした。しかし今、私キリストがすべての人に生命の法則を明らかにする時が来た。皆が私を見つけられるように。私は地上で私の国を建立するために歩き回っているのだから。
聞く耳のある者は聞きなさい。
新しい人間存在が出現する。私キリストは、真の意味で私に従う私の人々に、内なる生命のための内なる改革すなわち霊的な革新をもたらす。感覚の世界は消え去り、霊的な世界が沸き起こる。そして、その世界とともに私キリストに倣う人々が躍進する。その人々は、内なる生命をもたらす、すなわち私キリストの中での新たな人間存在をもたらす、高尚で繊細な者たちである。
この世本位の人々の多くは、死の耕地を見つめ、最後には死の国へ中身を持たない空っぽの手で入ってゆく。その国では、霊的に死んだ者として生きることになる。それは、自分の地上での実存を修得できなかった人々、つまり地上の学校の中で、心の内の成長を見ずに終わった人々である。
新しい人間は、共同生活を営む。それは共同社会の感覚を発達させたからである。それはすなわち、一人はすべての人のために、すべての人は一人のために、という公共の幸せである。
私キリストの中の新しい人間は、暴力を知らず、所有を要求せず、権力の思考を持たない。
その人間は光をもたらす人である。その人は光を発し、真理に向かって突き進むすべての人に真理の光を灯す。
新しい人間存在と新しい地上は、振動の度合いが少し高い。これは、権力と名声を得ようとする貪欲なこの世の囚われ者には決して達することのできないものである。そのような人は、自らがつくった自分自身の洪水に陥る。
新しい人間存在は、霊的な崇高さを持つ人間、内なる価値観を持つ人間である。私キリストがそれらの人間の中で復活したのであるから。
霊の時代の新しい人間が地上の国を所有するのである。
永遠の「神による存在」は地上のあらゆる国を流れてい る。真理に目覚めた者は、その「神による存在」に気づいた者である。それは創造的な力に目覚めた者、そして地上を満たし、自らの魂を高尚にする人間に浸透する創造的な生命に目覚めた者である。これらの人間が、新しい地上のために創造的な思考をもたらす。
現代の人間よ、理解しなさい。人間は改心し、物質世界への 追及を放棄した時に、静寂の国へ入っていくことになる。一歩踏み出すや否や、人間は、神、永遠なる者が人間のためにこの道をずっと前から用意していたことに気づく。
真実に向かって進む人間は、自分のためではなく再び神聖なものとなるために、下位の自我を克服する。
私があなたがたに開示するものは、神の法則への道であり、神の法則そのものでもある。
皆、私のもとへ来なさい。私はあなたがたを豊かにする 生命である。
私は、内なる富、キリストであり、あなたがたに自らを与える者である。心を開きなさい。そうすれば、あなたがたは心の中に目をやる心の思想家となり、心の内の国を地上に導くだろう。
私は心の内の国である。だから、自らの心の奥深くに入りなさい、そして知りなさい。あなたがたは誰もが聖霊の神殿であることを。その神殿を清めなさい。そうすることにより、あなたがたの感情、思考、言葉、行動は神聖なものとなり、あなたがたは新しい人間に変わってゆく。静的でなく動的な思考で、三次元に浸透してゆく人間に。何故なら、その人間は万物の子供であり、神の息子と娘であるから。息子と娘はその父である神の中に生きているがゆえ、親子関係に生きている。
私はすべての中のすべてである。
木の茂みを見つめてみなさい。私を見つけるだろう。
石を持ち上げてみなさい。私を見つけるだろう。
天体を見つめてみなさい。私に気づくだろう。
人間を深く観察してみなさい。あなたは自分自身を見つけ、
それにより私キリストを、あなたの中の自己を見つける。
動物を観察してみなさい。 あなたは私を見つける。
風を感じてみなさい。あなたは私の声を聞く。
水の一滴を見つめてみなさい。
あなたは私の中で自分を見据える。
何故なら、私がすべての中の生命であり、
あなたがすべての中の生命であるから。
すべてが私の中にあり、すべてがあなたの中にあるから。
私たちは神の中で、偉大なる万物の創造者の中で、
一つになっている。
神は永遠である。
「神による存在」の流れであり
人格化した「神による存在」である。
神は万物の流れであり、その滴そのものである。
万物の力は、真の自己を知らない人にはただ隠されてい る。万物の力を知りたければ、実行によってそれを明らか にする必要がある。
あなたが見るものの中には、私がある。
あなたが聞くものの中には、私がある。
私はすべての中のすべてであり、全体である。
全体に目覚めたら、あなたは「神による存在」となる。
あなたは「神による存在」を見据える。
あなたは「神による存在」を聞き、
「神による存在」の言葉を話す。
あなたは私を見て、私を聞いて、私のことを話す。
何故なら、私はあなたの中の全体であるから。
私はあなたの隣人の中の全体である、
あなたの中、花の中、草の中、石の中の全体である。
私はあなたのものであり、あなたは私のものである。
私は万物であり、あなたは私の中、
万物の中にある万物である。
あなたは尋ねることはない。あなたは知っているのだ。
あなたは見るのではない。 あなたは見据えるのだ。
あなたは聞き耳を立てることはない。
あなたには聞こえ、知っているのだ。
外側を見てはいけない。光はあなたの中にある。
あなたの中に真理がある。その真理は、あらゆる物について知り、あらゆる人とあらゆるものを知るものである。 あなたは、隣人を探し回る必要はない。物を外側から観察する必要はない。真に存在するものは、あなたの中にある。
あなたの目に見えるものはすべて、真理の鏡像にすぎない。つまり、反射されたものであり、絶対的な真理ではない。
あなたの内にあるもの、つまり光、真理、そしてあなたが純粋な「神による存在」の中で神の中の存在としてある姿は、天の中で最も純粋な実体によって形を持った。
あなたの肉体化された魂の奥深くにあるもの、魂の根底にあるものは、重荷のない光つまり永遠の真理である。それは「神による存在」であり、永遠にそうあり続ける。
神からの一つの存在が落下することによって、神のエネル ギーのうち所定量のみが堕落のエネルギーに変換された。
そこから、堕落の国、堕落の存在、そして人間が生じたのである。この所定量の神のエネルギーは、永遠なる者からのさらなる堕落の存在に対して、それらが生命を維持するために与えられた。これは、下方に変換された神のエネルギーである。そのため、下方に変換されたすべてのエネルギーと物質は、純粋な「神による存在」の鏡像にすぎない。
無限なるもの全体の中には、たった一つの原則しかない。送信と受信である。あなたが送るものはあなた自身であり、あなたが発するものである。あなたが発するものは、再びあなたに戻ってくる。
心の奥深くで、神の中で生きる人は、神聖である。その人は、永遠の法則の光を発する。純粋なもの、美しいもの、繊細なもの、そして絶対愛を、つまり自らがそうである「神による存在」を発している。
永遠の法則、純粋なもの、美しいもの、高尚なもの、繊細なもの、そして絶対愛が発するものは、神に満たされた人から出てくるものであり、それから再びその人の中に入り、その人の中で光を発する。
永遠である「神による存在」の中では、純粋な存在が生きており、永遠の「神による存在」の中で自身の実存を持っている。何故ならその存在自身が永遠の「神による存在」であり、永遠の法則、神、すなわち純粋、美、自由、高尚と繊細、無私無欲の愛であるから。純粋な存在は、万物の流れの中、神の中、「神による存在」の中にある「神による存在」である。
浄化の場にある重荷を負った魂と、肉体化されて重荷を負った魂、つまり人間は、「神による存在」として生きておらず、「神による存在」の流れの中で動いてもいない。
神の中で生きていない人は、自分自身がつくった世界の中で生きている。それは、人間の感情、思考、言葉、行動からなる世界である。その人はそれらを自分にとっての「神による存在」あるいは「自己」と呼ぶ。それは、人間の自我による小さな世界である。
この小さな世界にその人は生き、動き、そこにのみ自分の実存があると考える。
その人は、繭のようなものである小さな世界の目だけで見る。それによりまた、隣人の小さな繭の世界しか見ることがない。
その人は生命の表面のみ、つまり鏡像のみを見る。何故なら、その人は外側にのみ生きていて、自分の小さな世界でのみ動いているからである。重荷を負った感情、思考、言葉、行動によって自分で張った小さな繭の中でのみ動いている。これがその人の意識の状態である。
この小さな繭の世界の糸は壁のようなものであり、その人はその壁を見て「真理」と呼ぶ。その人は、小さな自分の世界の壁にのみ目を向けるため、同じく隣人の小さな世界の壁しか見ることができない。つまり、真理の鏡を見ているだけで、真理そのものを見据えているわけではないのである。
その人は真理について語るが、真理の鏡像のことを言っている。その人は、その内容を自分自身で入れ込み、それを使って自分自身をでっちあげ、それを信じている。何故ならその人はそれだけを見ているから。自分が見ているものだけを信じ、それを真理と言っているのである。
万物の中に、原則は一つしかない。送信と受信である。誰もが自分自身を、すなわちその人そのもの、その感情、思考、言葉、行動を送るのである。
純粋な存在は生き、純粋な永遠の法則、つまり万物の法則の中で、そしてそこから外へ活動する。
純粋でない人は、自分で生み出した小さな世界に生きている。それは、自らの不浄からなる世界であり、自身の感情や思考、言葉、行動から排出されたもので構成される世界である。この繭の世界で、その人は生き、動き、自分のあるがままに感じたり、考えたり、話したり、行動を起こしたりする。それにより自分の繭の世界が構成されている。
重荷を負った人は毛虫に喩えることができる。
その重荷を負った人、つまり毛虫は自らの小さな世界の糸を張り巡らし続ける。羽化して羽を広げ、蝶、光の存在とならなくてはならないと気づくまで。そのような存在は、神の永遠なる万物の法則、万物の原則の中に生き、動き、永遠なるものの中に永遠の実存を持つものである。その万物の原則は、確かにそこにあり、自己として自らを語るもの、すなわち純粋、繊細、高尚、美、無私無欲の愛、万物 の法則、絶対性、永遠の「神による存在」、永遠の真理を語るものである。
だから、どんな毛虫でも羽化して羽を広げ、自分自身で張り巡らした糸を解かなければならない。それにより、その中にあった自分を認識し、そこに認識したものを悔い、赦しを請い、許しを与え、そこに認識したことを繰り返さないようにするのである。
そうすれば自らの繭の糸が解け、これまでその人間が見ていた壁は崩れる。小さな自我の世界であり、真理の鏡像でしかなかったにもかかわらず、真理と呼んでいた壁が崩れるのである。すると、光の灯った魂と、心の内の聖域に向かう人間は、永遠の「神による存在」、永遠の真理を自らの中に見ることができる。
永遠の自己は真理である。真理となった人は、自らが真理であり、自己、「神による存在」、つまり「私はある」という神、愛の永遠法則なのである。
その人間は、真理の目で、自らの中に、外にあるものをも見据える。その人は、真理の鏡像を見抜き、すべての人間、事件、会話、出来事の中に真理を見据える。その人は、真理の目によって真理でないものも目にする。 しかし、見まがうことはない。何故なら、その人は真理であり、真理の目で見据え、真理の中ですべてを語り、話し合い、成し遂げるからである。
その人は真理そのものであり、真理は万物の永遠の法則である。その人はその法則の中で生き、動き、その法則から受け取り、その法則によって活動する。その人はあらゆる感情、思考、言葉、行動の中で真理であり、法則である。
真理、「神による存在」、永遠の法則はあなたの中にあり、その真実、永遠のものはまずあなたの中で形作られ、それから初めて外側、あなたの周り、世界の中で形作られるから、あなたはあなたの中で、あなたの中に住む至高の聖人の中で生きなければならない。
だから、認識しなさい。あなたは、自らの中に住む一人の神、聖人の神殿であることを。
次の真理の教えを覚え、それに従って生きなさい。「あなたの中に住みなさい。あなたは、自らの中に住む一人の神、聖人の神殿なのだから」
「あなたの中に住みなさい」とは、以下を意味する。人間的で利己的な思考を一切拒みなさい。あなたの感情、思考、言葉、行為すべてを神のもとへ高めなさい。
話す時は、聞かれた時にだけ、かつ神殿の秩序に関する永遠の法則に従ってのみ、話すようにしなさい。多すぎず少なすぎず、その程度はあなた次第である。あるいは、それが隣人にとって意味をなす時に、あなたが隣人に生命の賜物を与えられる時に、話しなさい。
好奇心から質問することはやめなさい。可能であれば、質問自体をやめなさい。あなたが聞くべき、知るべきだと思ったことは、あなたの心の中に住む者からもたらされるはずである。
そして、あなたの脇の隣人が瞑想や思索にふけっている時には、あなたが信じる人間的な知恵を理解させようとしてその人に話しかけるべきではない。何故なら、その人が今どこをさまよっているか、誰と何についてやり取りしているのか、あなたにはわからないからである。
隣人の邪魔をしてはならない。そうすれば、あなた自身、誰 からも邪魔されることはない。何故ならあなた自身が注意を払っているからである。
また隣人が、食事をしたり仕事をしたりしている時は、重要なことや本質的なことを伝える場合でない限り、その人の邪魔をしてはならない。何故なら、その人が誰と何についてやり取りしているのか、あなたにはわからないからである。
エネルギーを浪費することなかれ。それはあなたの魂と肉体を弱めることになる。同時にそれは、あなたの心の奥深くにある神聖な場所、あなたの中の神を離れ、自らを外へと追いやることになる。
そうすると、あなたは隣人の神殿に寄りかかり、求め始める。何故なら、あなたの魂と肉体のエネルギーが減少しているからである。
自らの神殿に住んでいない者は、自分自身が聖霊の神殿にいることを徐々に忘れる。それは、その人が以下のような神殿の秩序をもはや守っていないからである。
あなたの中に留まりなさい。あなたにとって、隣人にとってのすべては、聖域の中で経験し受け取ることになるのだから。あなたが何を言うか言わぬかは、すべてあなたの中で聞き分けることができる。日々の仕事のエネルギーも、聖域の中で、あなたの中で、受け取ることができる。
自分の中の神殿を純粋に保とうとしない者は外側に神殿をつくるか、あるいは儀式、教理、礼拝を是認する形での自分のエネルギーを通して、かつ自分の才能とお金を使っ て、その神殿を維持する。するとその人は、神聖な神の秩序ではない規律の囚われ者となるのである。
神の中、つまり自分の神殿の中を住みかとする人は、心の奥深くの聖域の中に生き、隣人の神殿に侵入したり、冒涜したりすることは決してない。
だから、あなたの頑強な望み、欲望、想像、意見によって、隣人の神殿に決して侵入してはならない。
要求や決定を決して隣人に押し付けてはならない。また、あれこれと、何かすることを強制してはいけない。あなたに喜ばれよう、あるいはあなたから解放されようというだけで、隣人があなたの要求に従うとしたら、あなたは泥棒か略奪者になったことになる。何故なら、あなたが隣人の生きる力の一部を奪ったからである。
隣人の神殿を尊重しなさい。隣人もまた神殿の秩序を修得すべきであり、あなたが隣人の視界を邪魔しさえしなければ、弱さと過ちに自分で気づくであろう。そして隣人は、自ら気づいたことを浄化しなくてはならない。隣人もまた聖域、どんどん浄化される自らの神殿に入ってゆくことができるように。
神殿の秩序の法則性を守れば、あなた自身と隣人に敬意 を払うことになる。
自らを尊重しない人は隣人を尊重することもない。何故なら、その人が神殿の秩序、神殿の法則を自ら守っていないからである。
神殿の秩序は、神殿の法則である。それは永遠の聖なる法則であり、神の中に、神とともに生きることである。
神殿の法則を守る人は、自分の気持ち、感情、思考、話そして行為を神のもとへと高める。これにより、その人は神から満たされ、自分が感じ、考え、話し、遂行することに神の力が宿る。
神の法則を守る者は、隣人そしてあらゆる「神による存在」と一つである。何故なら、永遠の法則を守る者は、「神による存在」だからである。
覚えておきなさい。
あなたは、自らの中に住む一人の神、聖人の神殿である。だから、神殿の秩序を守ることによって、自らの神殿を清めなさい。
あなたの心の中に至高の賢人、永遠なる者が宿っていること を、日々、改めて自覚するようにしなさい。それはあらゆる物について知り、あなたとともにあり、あなたに語りかけ、あらゆる答えと解決策を知っている者である。
朝起きる時、話す前、仕事を始める前、あなたが隣人に会って会話する時には、次のことを考えなさい。
あらゆる物について知っている至高の賢人、永遠なる者があなたの中に宿っている。
その者が、あなたに語りかけ、あなたを通して話す。その者が、会話の中であなたを導く。その者が、あなたを通しあらゆる状況の中で活動する。その者が、仕事をする時に力になる。
頭に置いておきなさい。
あなたの顕在意識と潜在意識の中で、無益なものや不誠実なものが躍動するのを容認してはならない。
意識的に生きている人は警戒心がある人であり、誘惑しようと忍び寄る放浪者を知っている。
内なる力の試練を受けなさい。そして、あなたのもとに忍び寄る不誠実なものすべてを自分のもとから追い払いなさい。浄められた神殿に立ち入らせないように。
思考と感覚の制御により、あなたの内なる神殿は純粋なものとなっている。
あなたのもとに忍び寄る誘惑はすべて、自分のもとから追い払うのである!
ただし、誘惑を自分のもとから追い払う前に、その中にある善なるものを歓迎し、それがあなたの中で動くことを許しなさい。
あなたの中での善の動きは、邪悪なものの中に、すなわち誘惑の背後にいる誘惑者の中に、苦悩を引き起こす。
その苦悩とは、邪悪なものの扉を叩き、これが変化のため の救いであり力であると気づかせ、それを同時に申し出る良心である。 こうして、邪悪なものは自己認識と浄化の可能性を持つことになる。外から来る邪悪なものとは、背後に誘惑者がいる誘惑であり、負の力をあなたに向けることで、あなたがそれに屈しないかどうかを試している。
それと同じことが、解放者であるあなた自身を通して、ただし逆のプロセスで起こる。あなたの中の善なるものが邪悪なものの扉を叩く。それにより、分別を持つように、自らの過ちに気づくように、自らを改めるようにさせる。
だから、邪悪なものが突然襲ってきたら、あなたの内なる神殿の門の前に出て、邪悪なものに対し善なる賜物を与えなさい。
あなたが認識した襲いかかる思考がどう反応するかによって、あなたは誘惑者の反応に気づくことになる。あなたからの無私の賜物が共鳴を得て、受け入れられたと感じるなら、さらに多くを与えなさい。それから、誘惑者にキリストと神の意識について教え、あなたの内なる神殿に戻りなさい。
そこで、つまりあなたの心の奥深くでは、人間の思考や反応を立ち入らせてはならない。あなたの心の奥深くで誘惑者の善なるものを守り、時とともに動かしていきなさい。そうすることでその誘惑者に万物の法則を送ることになる。あなたは、その誘惑者に無私無欲の愛の賜物を送るのである。しかし、あなたは受け取りに行ってはならない。それは、神キリストと、神の息子、つまり誘惑者がすることである。
あなたの隣人がどのように振る舞うか、何を送るかは、永遠の父とその息子のみが関与することである。
神殿の秩序を守りなさい。沈黙せよ!
沈黙することとは静寂の中に留まることである。
聖域の中に、神の中に住む人を通して、神は生き、話す。
神の神殿では、人間の思考は存在し得ない。
考えることなく、つまり沈黙したまま、
あなたの中に留まりなさい。
考える時は、神聖なることを考えなさい。
話す時は、神の法則、つまり神聖なことを話しなさい。
神聖なものだけを、あなたの隣人が生命の法則の賜物を望んでいる時のみ、語りなさい。
覚えておきなさい。
あなたの純粋な感情、純粋な思考は神聖なるものである。
あなたの無私無欲で高尚な、倫理的な感覚は優れたものである。
それらは万物を理解するため、天に伸びるアンテナである。何故なら、あなたは「神による存在」の中、天の中に生きていて、天から受け取るからである。
決して隣人を見てはならない。そうしてしまうと、あなたは自分自身のみを見ることになる。あなたは、自分の心の奥深く、聖域から自分の中を見通すことを学んで初めて、隣人の中にも浸透できるようになる。
あなたが隣人の中に浸透することができない間は、あなたの心の奥深くに隣人を受け入れることもできない。あなたの中にもある隣人の神聖なるものを開花させた時に初めて、あなたは自分の兄弟・姉妹を自らの中で知るのである。
隣人の中に浸透できない限り、隣人はあなたにとって見知らぬ人である。何故なら、あなたも見知らぬ人で、永遠の「神による存在」からは遠くかけ離れているからである。
あなたがた二人がともに浸透し合えば、あなたがた二人は「神による存在」の言葉を話すことになる。そして意識的に一つになり、神の中でも一つになる。
決してこう言ってはならない。「この人間は私にとって見知らぬ人である」と。
あなたにとって、魂を覆っているものが未知の場合、つまり見知らぬものであっても、次のことを意識しなさい。覆いの中身、つまり魂の奥深くにある純粋なものは、あなたの一部である。
あなたの兄弟・姉妹を知らないのなら、自分自身をも知らないことになる。何故ならあなたが、あなたの中にある隣人の純粋な部分を開かせていないからである。
あなたが「知っている」ことと「見知らぬ」ことを切り離す限り、あなたは神から離れている。
それゆえ、自分自身を人間として見るのではなく、自分を、そして隣人を写し絵として、神の似姿として見据えなさい。隣人を自分の中で自分の兄弟または姉妹として見据 えなさい。そうすれば、あなたは自分の中で、生命が「神による存在」であることに気づく。何故ならそれは、あなたの中に、すべての中に遍在するものであり、大いなるものの中の最小のものであり最小の中の大いなるものであるからである。
次に挙げる法則性についてよく考えなさい。
あなたは、一人の人間と話した。あなたはその人の名前しか知らない。あなたは、その人が何から成り立っているかを知らない。その隣人も、外面的なところだけで生きているため、自らを知らない。何故なら、その人自身も自分が何から成り立っているか知らないからである。その人は自分自身を知らず、あなたもその人を知らない。つまりあなたがたが互いを知らないならば、神をも知らない。そのため、あなたがたはどちらも一人ぼっちである。永遠に愛する父たる神は、あらゆる人を知っている。何故なら、神はどんな子供をも愛し、神の父なる大きな心の中に抱えているからである。
すべてがあなたの中にある。生命があなたの中にあり、あなたはそれを自分の中から満たす。
すべてが最初はあなたの中で生じたものであるから、永遠の「神による存在」には陰がない。それゆえ、上や下というものも、前や後ろというものも、左や右というものもない。
一つである万物は、内なる生命のあらゆる側面で輝く力強い結晶であり、あらゆる光がそれぞれの側面に浸透してゆく。
人間は、「上」や「下」、「前」や「後ろ」、「右」や「左」と口にする。何故なら外側の目でのみ見て、真理の反射像のみを記録しているからである。人間は、人間的な過ちの行動によって、三次元の考え方を引き起こす密集地帯を生み出した。それは、人間が自分でつくった繭の世界の壁を肉体の目で見るだけで、これを現実のものと思い込み、自らの生活基準と捉えているからである。
その密集、物質は、下方に変換された神のエネルギー、つまり光を陰に反転したものにほかならない。
このような人間の陰の世界に住む人は、魂が陰で覆われ ている。そして、魂により全体が陰に覆われる一因となったものを償うために地上の人間として存在している。光の存在が全能の神の指図により訪れて、人間すなわち陰に隠れた魂が自らの暗い自我の迷路から抜け出すための道標を示さない限りは。
神殿の秩序を守りたいなら、生命が一つの全体であることに気づきなさい。上から下まで、前から後ろまで、右から左まで、全体のものとしてあることに。それに気づき、自らの神殿の奥深くに生きれば、自分の心の奥深くから受け取ることもできる。
外側の人間にとっての上下、前後、左右とは、内なる人間にとっては、自らの中の生命であり全体である。
神殿の秩序を守るなら、あなたは神殿の中に住み、あなたの中の神の聖域に住み、あなた自身を知る。あなた自らが「神による存在」であるとわかったなら、あなたは隣人を知ることになる。何故なら万物を知り、「神による存在」を知り得たからである。
そうしたなら、あなたは何も探し求める必要はない。あなたは受け取ったのである。「神による存在」が永遠に与えてくれるから。その存在はあなたの中で与えてくれる。あなたの中を流れ、あなたの中で、この世界の中で明らかになる。
自分自身が「神による存在」であると気づき、その「神による存在」の中に生きれば、真理、つまり「神による存在」を見つけるために見回す必要はない。何故ならあなたは、後ろが前と同じであることを知っているからである。あなたは、右と左を眺める必要もない。何故なら、右と左が後ろと前のように同じものであることを知っているからである。あなたは、上も下も眺める必要はない。あなたは、上と下が前と後ろ、右と左のように同じものであることを知っている。つまり、あなた、「神による存在」の中にある生命、最小の中の大いなるもの、大いなるものの中の最小のものを知っているのである。
覚えておきなさい、そしていつでも心に抱いておきなさい。
神はここにいる。神はどこにでもすべてに存在する。
最大のものの中に最小のものがあり、最小の中に最大の もの、神がある。
あなたが自分自身を見つけたなら、それは神を見つけたことになる。そしてあなたは万物に精通する。そうしたら、あなたは万物を探し回る必要がなく、右や左、上や下を見る必要がない。あなたの中に万物がある。あなたの中に神がいる。あなたの中に隣人がいて、あなたの中に自然界のあらゆる力が存在する。
あなた自身を見つけたなら、あなたの中にすべてを見ることになる。何故なら、あなた自身がすべての中のすべてであるから。
繰り返し覚えなさい。そして意識的に心に抱いておきなさい。
あなたの神殿を純粋に保てば、あなたの中ですべてを解明したことになる。そして、あなたは隣人の神殿に敬意を払い、あなたの中、隣人の中、そして自然のあらゆる生命形態の中に住まう至高の聖人に畏敬の念を抱くことになる。
あなたは豊かである。何故なら万物があなたの中にあるから。よって、あなたは自分自身の中にすべてを見つける。大いなるものの中の最小のもの、そして最小の中の大いなるものを見つけるのである。
私キリストはイエスとして、永遠の法則に関する以上の内容とさらなる詳細について、それを理解できた私の使徒と弟子たちに教えた。それでもなお、私は繰り返しその者たちに永遠の「神による存在」への道のり、堕落の法則、種と収穫の法則をも説法しなければならなかった。
堕落の法則は、下方に変換された神のエネルギーであり、敵対者はこれを反転させ、神に逆らって用いようとした。この誤った考えは、それ自体に裏返って作用する性質があった。何故なら、人間が人間的なものについて蒔いた種は、その人間が収穫するからである。神や隣人ではない。
神の中には好奇心というものはない。好奇の目で見回す者は、下位の自己、自分自身、自我しか見ていない。それは、自分の本当の自己を見据えているのではなく、それゆえに自分自身を知らないことにもなる。好奇心を持った人は、何か新しいものを探し、それによって自分のために何かを獲得し、利用しようとする。何故なら、その人には、内なる価値が不足しているからである。
好奇心を持つ人は、欲望、貪欲である。その人が見るもの、聞くものは、その人自身にすぎない。
好奇心を持つ人は、左右、前後、上下を好奇の目で見て、また怯えている人でもある。いたるところに自らの危険を見ている。その人は、神の中で休息することがないため、神の中で生きてもいない。それにより、恐れているものを自らの手で築いている。境界と密集の世界に生きているのである。
他の人を恐れる人は、自分自身に不安を持っている。その人は、自らを信用することができない。その人にとって、密集が現実であり、同時に脅威でもある。怖がりであるがゆえ、何も起こらないように、その人は常に自らに目を向けようとしている。その人は好奇の目で前後、左右、上下を見ることによって、自分は安全であると思い込んでいる。何故ならそ の人は、そのようにして視野を確保できていると考えてい るからである。
この視野、すなわち上下、左右、前後を見回すことは、密集の中、つまり物質上での道標でしかない。あなたがたの肉体的な目は、物質のために、密集のためにつくられているのだから。それがわかっている人は、心の内の神殿の中に留まり、神殿の秩序に従う。
真の賢人とは、聖域の中に留まり、そこで静寂を保つ思慮深い者である。静寂の神殿の中で、真の賢人、思慮深い者は、神からの直接の教示と神の救済を受ける。
あなたが心の内の生命の法則に精通しているなら、神のことを感じて考え、神の言葉を話す。その言葉はあなた自身であり、神聖なものである。
神の海の中の雫として生きる人は、神の法則となっている。その雫は、海全体の本質である。すべての雫が、神である海をまた形成する。一滴の雫は、他の雫と同様である。何故ならあらゆるものが一つのものの中に含まれているからである。そのため、あらゆる雫が互いに浸透し、海、つまり万物の法則、神を創り出す。
万物の法則、神はあなたの中の聖域である。そこには絶対の静寂がある。
あなたの中で心を休めなさい。あなたが神聖なのだから。
あなたは「神による存在」である。何事にもいらいらせず、怒ったりすることなく、衝突することのない「神による存在」である。あなたは「神による存在」である。すべてのもの、すべての人を見通すから、すべてのもの、すべての人に浸透する。
神殿の前庭、神殿につながる道で動き回っており、まだ神殿に入っていない人は、感情と思考の世界の無秩序の中にいまだに生きている。その結果、その人は、自分しか見ることがなく、下位の自己のみを見ている。また、自分のこと、つまり下位の自己についてしか話さない。何故なら、その人の意識が無秩序を把握できず、それを見抜くことができないからである。
そのような人間は、自分のことしか話さず、自分のことしか見ず、自分のことしか聞いていない。そのため、隣人を見据えることも理解することも聞くこともできない。何故なら、その人は自分のみを見て、自分のことのみを語り、自分のことのみを聞いているからである。
そのような人間は、隣人に対する感情を全く持たない。そして隣人が話すことを理解しない。何故なら、自らの感情、思考、言葉、行動の無秩序と、粗野で貪欲な感覚のせいで、見通す力がないために、自分自身を理解できないからである。そのような人間は混乱している。何故ならその感情と思考の世界が混乱しているからである。
真実のもの、そして万物を見通したものは、あなたの神殿の奥深くで、聖域でのみ発生する。至高の聖人とともに、そして至高の聖人、神を通して。
あなたは、心の奥深くの宝の賜物をどれだけ隣人に与えることができるか、霊的な成長と成熟のために隣人が何を受け入れることができるかを、あなたの中でのみ見据えて、認識する。つまり、あなたは、隣人に与えてもよい分量、ひいては隣人への恵みとなるものを、あなたの中で見据えたり聞いたりする。
知りなさい。あなたが「神による存在」となったら、すべてのこととすべての者があなたの中にある。あなたは、あなたの中であなたを通して、見据えたり聞いたり、匂いを嗅いだり味わったり、触れてみたりする。何故なら、外側にあるものの内に隠れたものはすべて、あなたの中の生命だからである。
だから、あなたの中に住みなさい。そうすれば、あなたはすべての中に、あなた自身、自己をも見据える。何故なら、あなた自身が自己であり、「神による存在」であるから。ひいては、すべてが自己であり、「神による存在」で あるから。そうすると、あなたは鉱物の中で、植物・動物の世界、天体の中で、真の自己の一部を見据えることになる。そして、光として、力として、あなたの一部として、純粋な者であるあなたの中で、あらゆる純粋なものを認識する。外側のものの中にあなたが見据えるものは、あなたと同様に、その奥深くに光と力を持つ。それはつまり、あなたの中にある本質で、あなたの一部である。
この高尚で繊細、かつ純粋な意識の中に生きる人は、外側の生命形態を軽率に壊すことはないだろう。何故なら、そうすることが自分の中にあるその部分の生命を妨げることになるからである。もしそうするなら、その人は自分の役に立たないと思うことすべてを壊そうとする愚人になってしまう。このように外側を扱うことによって戦争や殺人、不和が起こってきた。
それが意味することを認識しなさい。軽率に人間や動物、植物を殺すことは、あなたが自分の中のそれらに陰をつくることであり、自らの生命を妨げることになる。そしてあなたは、周囲に対して破壊的に働きかける利己的な人間、つまり愚人であり続ける。
あなたは、あなたの中でのみ、すべての中の「神による存在」を見据える。そのため、あなたは周りを見る必要はない。あなたは自らの中に深い視野を持っている。
天にあるものは、地上にもある。単に神から離れているだけである。神の法則とは、無私無欲の非個人的な愛である。神は与え、献身し、誰にでも均等に与える。
種と収穫の法則は、自己愛によって起こったものである。個人本位の愛である。この愛は、「ある人が、他の人よりも私の近くにいる。私に近い人のほうが多くを手に入れ、他方の人が得るものは少ない」というものである。これが、個人本位の愛、自己愛、利己的な愛である。
天にあるものは、地上においては変化した形をとっている。そのため、地上、物質世界、浄化の段階は、永遠の「神による存在」を写し出す鏡にすぎない。種と収穫の法則は、鏡像と見なすべきである。
天は「神による存在」であり、純粋なもの、万物に光を当てる神の法則である。種と収穫の法則は、人間が言うところの「神による存在」であり、「私のもの」や「私に対するもの」で構成されている。それは、下位の段階の自我に由来して生じたもの、生じるものである。
純粋なものは、「神による存在」、自己、「私はある」、非個人的な生命、神の法則である。純粋な存在は、純粋なものであり、自己であり、「神による存在」、非個人的なもの、「私はある」、神の法則である。それらの感情、言葉、行動は神の法則であり、自己、「神による存在」、非個人的なもの、純粋なものである。それら(それらのエーテル体は法則なので、法則とも言える)は、自ら、純粋なもの、「神による存在」、自己、非個人的なもの、神の法則を感じ、話す。
種と収穫の法則は、概して重荷の法則と言い換えることができる。それは多くの人間的な自我の要素から成り立っており、それが各人間の自我の法則となっている。各人間の自我の法則とは、相反する感情、思考、言葉、行動から成り立っている。自我の法則は、個人の法則と言い換えることもできる。何故ならそれは、自らの自我を送り、それ と同じ発信の潜在力を再び受け取る個人に関するものであ るから。
個人の法則をつくった者は、その中に生き、それが保存されている天体の中で自らの魂を通してそれを呼び出す。あなたの隣人は、同様あるいは類似のものを、同じまたは似たような負の感情、思考、言葉、行動によって生み出さない限り、あなたの自我の法則には適合できない。
純粋な存在は、永遠の法則の中で動く。それは法則を話 し、それ自体が永遠の法則である。
重荷を負った人は誰でも、自分の自我の法則の中で動く。それは自らの小さな世界であり、その人自身の自我、「私のもの」、「私に対するもの」によってつくり出した世界である。その人は、自分の小さな世界を話す。自分の自我の法則を築くのに使ったものを話す。この法則に従って、その人は自分を感じ、自分のことを考え、自分のことを話し、自分の感情、思考、言葉のとおりに行動する。つまり、その人は自らの下位の自己、自らの下位の「神による存在」に従って感じ、考え、話し、行動することになる。
人間的な自己、つまり下位の自我は、隣人に対する目を持たず、耳を持たず、感覚を持たず、自分自身に対するものだけを持つ。
この人間的な自己は、神聖な自己、聖域の中に入ることができない。そのため、隣人のことを感じ、認識し、見通し、知ることもできない。何故なら外在化した人間の中では、無私無欲がいまだ開花していないからである。
人間的な自己、下位の自我は、神聖な自己、つまり万物に光を当てる「私はある」とは相容れない。
純粋な人は純粋なもの、永遠の法則、神を話す。純粋でない人は、自らの純粋でないもの、自我の法則、下位の自己を話す。
つまり、誰もが自らのことを話す。純粋な人は絶対なる自己、つまり「私はある」という神のことを話し、純粋でない人は下位の自己、つまり個人だけに関する下位の自我しか話さない。
静かな心を保ちなさい。
内なる静寂の中で、あなたは神からの存在であることに、神の中にいることに、気づくであろう。永遠の父とあなた、すなわち神の子供は一つであるのだから。純粋な存在であるあなたは、聖域の中に生き、あなたの中に、自己の中に生きている。あなたは神の神殿であり、あなたの中に至高の聖人が宿っているのだから。
静かな心を保ちなさい。
あなたの中に静寂があり、あなたは静寂の中にいる。あなたが静かになれば、もはや人間の感情、思考、言葉、 活動、慕情を持つことはない。あなたには究極の静寂、神が浸透しているのである。
あなたの中で、浄められた感情、思考が開花する。あなたは大いなる全体のために魂を吹き込む言葉を発し、非個人的な行動をとる。
真の自己、すべてを包括する強力な「私はある」という神の存在は、あなたに伝わる。そしてあなたは美の輝き、純粋なもの、高尚で繊細、崇高なものとなる。何故なら、あなたが自分の中、永遠の自己、「神による存在」の中に住んでいるからである。そしてあなたは天がそうであるように、美、純粋、高尚、繊細、崇高、善意、無私無欲の愛となるからである。
愛の太陽は、光の言葉を持つ。愛の太陽は、あなたの中で、あなたを通して光り輝く。
あなたの本質は、太陽の輝き、無私無欲の愛である。
静かな心を保ちなさい。全くの静けさを。誰も、何もあなたの中で煽動するものはない。
神聖な神殿の秩序、つまりあなた自身が無私無欲の愛の輝きであり、正義の太陽であり、あなたの生命の歓喜であり、「私はある」という「神による存在」である。
あなたが何を行おうとし、満たそうとしようとも、あなたの中の真の自己、「神による存在」は、あなたを通して感じ、考え、話し、行動する。
あなたの崇高な、無私無欲の感情と思考は、「神による存在」であり、あなたがそうであるように神聖なものである。
真の「神による存在」は、事柄と出来事にのみ関連する。そして、事柄と出来事の中で純粋なものとやり取りする。事柄と出来事の中の純粋なものが、心の内であなたに語る。あなたはどのようにしてその事柄と出来事を軌道に乗せるべきか、どのように計画すべきか、どのようにそれぞれの状況を解決することができるか、どのようにして無秩序を秩序に変えることができるか、どのように不浄なものを浄化することができるかを語る。
あらゆる質問の中に「神による存在」があり、
あなたに答えを用意している。
あらゆる答えの中に「神による存在」があり、
場合によっては再び質問をあなたに向ける。
あらゆる会話の中で、「神による存在」が作用し、
あなたはそれを自らの中に知る。
あらゆる言葉の中に、「神による存在」があり、
それがあなたに語りかける。
あなたが見たり出会ったりするあらゆるものの中に
「神による存在」があり、それがあなたに姿を
見せて語りかける。
あなたが心の奥深くにいれば、あなたの神殿は純粋と
なり、あなたは純粋なものとやり取りする。
あなたは、他人が聞かないものを聞き、
他人が見ないものを見る。
あなたは他人が知らないことを知り、
他人が認識しないことを認識する。
あなたは他人が感じないことを感じ、
他人が嗅がず味わわないものを嗅いで味わう。
あなたには他人が理解しないことがわかる。
何故ならあなたが真理であるから。神殿の静けさであり、
無私無欲の愛、神の法則であるから。
認識しなさい。
あらゆる事柄、出来事、困難、問題、状況、話し合い、つまり言葉の一つひとつが、それ自体を語る。
事柄、出来事、問題、困難、状況、行動、思考の一つひとつの中にある「神による存在」がまた、力強い自己を、「神による存在」を語るのである。
外側の覆い、つまり人間的なものは、自らを語る。覆いの中の力、つまり「神による存在」もまた、自らを語る。それは「私はある」である。